2009年05月20日

サブカルチャー文学論の感想(1)

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サブカルチャー文学論 (朝日文庫)
大塚 英志
朝日新聞社 2007-02

by G-Tools , 2009/05/20


この本は750ページ近くあるので、
全部についての感想をたかだか数センテンスの記事に書くのは、
絶対に無理だし、各項目によって扱う作家も違ったりするので、
ある程度分けてみようと思います。

序盤の章でとても印象に残り、面白かったのは
「まんがはいかにして文学であろうとし、
文学はいかにしてまんがたり得なかったか」
です。

この中で、
大塚氏は晩年の中上健次原作による劇画「南回帰船」をとりあげ、
中上作品における、外部の説話等と照合することで成立する、
物語の背後にそびえる「大きな存在」の影響を想像させる流れが、
文学のフィールドにおいては効果的に機能していたが、反面、
漫画という土俵は、その外部参照性における中上の個性に対し、
特に作品の根本を揺るがすような大きな制限をかけるであろう、
劇画の原作という範疇では結果としてどうにも収拾のつかない、
凡庸な作品へと舵をきらせてしまった点に関して考察しています。

普段、中上健次を読む中でうっすら感じていた、
その物語の筋がどういった手法で描かれ築き上げられているのか、
という興味に応えてもらう内容でしたが、それ以上に、
自分自身惹かれたのは、現在ポピュラーな日本の漫画における、
表象の基礎を作ったのは手塚治虫と石ノ森章太郎だった…
というような箇所。

石ノ森章太郎の少女漫画「江美子STORY」と、
萩尾望都「11月のギムナジウム」のシーンを比較することで、
漫画の持つ「表現」の手法がいかにして拡大し、
手塚が苦労した人物の内面描写の問題をどう克服していったのかが、
非常にわかりやすく書かれてありました。

また、手塚治虫について触れているところで思い出したのが、
確か小学校高学年の頃だったか、国語の教科書に、
手塚治虫の漫画についての随筆が載っていたことがありました。

まず円を描き、その中心からやや距離を離して二つ点を並べ…、
というような感じで、顔、表情の描き方の基本的な部分を、
簡単に紹介している話だったと思うのですが、
「記号」という単語があったかは記憶がはっきりしないものの、
ほぼ上記の章で書かれたことと一致する主旨の内容でした。

次章は著者が度々ページを割いている、
村上春樹の批評に再び入っていくことになりますが、
ここでのビックリマンシールについて多少語られる部分で、
個人的に連想したのが尾田栄一郎「ONE PIECE」だったのが、
自分でも驚きつつ目から鱗、という気分でした。

具体的には、ルフィ一行の冒険とは別に連載の途中あたりから、
各話のトビラのイラストの趣向が若干それまでと変わり、
過去に登場して、主人公のグループに敗れはしたものの、
おそらくその場をうまく逃れただろう敵キャラクター達が、
どこか別の場所で出会って珍道中を繰り広げる…という、
スピンオフの「絵物語」になっていったこと。

ストーリーが進むと「本編」と「トビラ」の筋は合流しますが、
まさにビックリマンシールの裏面にある『うわさ』と同様の、
その奥へ続く「大きな物語」への期待を高める…という意味で、
あれはなかなか成功したやり方だったんじゃないかと思います。

「ONE PIECE」もまた、研究本・解説本といった、
「謎本」制作を誘う漫画であるような気がしますね。
posted by garni at 18:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 差異 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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