2009年08月03日

沈黙

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沈黙 (新潮文庫)
新潮社 1981-10

by G-Tools , 2009/08/03

この小説を読んでいる間、頭の中にはジョヴァンニ・パレストリーナの「キリエ」が流れていた。



"主よ、憐れみたまえ。キリスト、憐れみたまえ。主よ、憐れみたまえ。"
この言葉が、美しい旋律によって静かに繰り返し紡がれている。
本作の主人公・セバスチァン・ロドリゴのモデルとなったジュゼッペ・キアラも、
きっとこの音楽に触れたはず。

「沈黙」は、遠藤周作の訃報に触れた時に初めて読み、とにかく強い衝撃を受けた。
今年になって少しニュースになったりしているので、久々に読み返したが、
やはり登場人物ひとりひとりに際だった個性があって生々しく、そして…重い作品だと思う。

本作は解説文によると、大まかにいって4つの区切りがある。
まず、日本で活動していた司祭・フェレイラが棄教したという報告が客観的に描かれ、
続いて司祭・ロドリゴの書簡が示され、そして、本編ともいえる三人称での物語が綴られ、
最後に切支丹屋敷役人日記で締められる、という構成になっている。
「俺あ、パードレばずうっとだましたくりました。聞いてくれんとですか。パードレがもし俺ば蔑されましたけん……俺あ、パードレも門徒衆も憎たらしゅう思うとりました。俺あ、踏絵ば踏みましたとも。モキチやイチゾウは強か。俺あ、あげん強うなれまっせんもん」
キチジローは作品の中で、裏切り者ユダのアレゴリーとして描かれる。
ほぼ全編にわたって彼は何度も何度も登場し、その度にロドリゴを追い、告悔を求める。
結局、最後まで信仰と背信を繰り返し続ける、ひたすら惨めな人物だ。

一見過剰なまでに不様な行いを見せつけるキチジローだが、
どうも読んでいると、そこまで彼を嫌いになれない部分も出てくる。
徹底して情けなく、またお調子者の彼に感じるのは不快さよりも憐れさで、
キチジローの持つその軽薄さや弱さに、読者であるこちらも、
自分の精神的弱さを無意識に重ね合わさずにはいられなくなり、
時にはロドリゴの生真面目さより、キチジローの卑しさの方が共感できたりもする。
だからこそ彼が現れる時、ロドリゴは「あの人」ならどうしただろうか、
自身は何をすべきか、司祭として培ってきたものの中に落とし込もうとし、
その都度感情は微妙に移ろいつつも、答えを見つけようと考えを巡らせているようにも思える。

ロドリゴは自身の思い描くキリストの姿に必死に寄り添おうとするが、
そのイメージの裏に、決して消すことのできない疑問が立ち現れる。
来日してからの馴染みの信徒のひとりである片眼の長吉が処刑された時、
同じく信徒の水磔に処せられたモキチとイチゾウを目にした時、
そして…囲いの中でフェレイラから、高く低く唸っている、愚鈍な鼾と思っていた音が、
実は穴吊りにされた信徒たちの、拷問に耐えきれずに漏れる呻き声だと知らされた時。
主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙っていてはいけぬ。あなたが正であり、善きものであり、愛の存在であることを証明し、あなたが厳としていることを、この地上と人間たちに明示するためにも何かを言わねばいけない。
(画像、穴吊りの拷問の図)
この後に出てくるフェレイラの台詞は、この「沈黙」の作品の中で最も重い言葉。
──もし基督がここにいられたら、たしかに基督は、彼らのために転んだだろう。

井上筑後守の狡猾さは、彼自身がキリシタンとして一度は洗礼を受けながらもそれを捨て、
逆に取り締まる側に回った者だからこそできる方法に思える。
彼のやり方は、周到に信徒、司祭たちを精神的・肉体的に追いつめていく。
それでも、バリニャーノから聞いた陰湿なイメージとは裏腹に、
実際に触れた井上の漂わせる穏やかで柔和な雰囲気に、ロドリゴは心を許しそうになる。
それが反対に井上が恐るべき人物であることを、実に不気味に示していると思う。
(画像左、井上筑後守の銅像)

転ぶ、とはその信仰を棄てる、という意味で、信徒にはもちろん、
司祭らにとっては死刑宣告のようなもの…ガルペの殉教を、ロドリゴは羨みもする。
度々説得に訪れる井上の意志を投影している通辞の言葉は非情で、鋭い響きがある。
ロドリゴの心はここでも抉られる。
「パードレ、お前らのためにな、お前らがこの日本国に身勝手な夢を押しつけよるためにな、その夢のためにどれだけ百姓らが迷惑したか考えたか。見い。血がまた流れよる。何も知らぬあの者たちの血がまた流れよる」
それから吐きすてるように、
「ガルペはまだ潔かったわ。だがお前はな……お前は、一番卑怯者じゃて。パードレの名にも値せぬ」
ただ、井上や通辞の発言には、当時の日本人が偏狭な島国根性のみから、
キリスト教を禁じたのではない側面を伝えようとする作者の意志もはっきり感じられる。
ロドリゴの前にフェレイラが最初に現れた際の主張は、井上の主張でもある。
農民が信じる神の存在は、彼らが説いている神とは変質している。
「やがてパードレたちが運んだ切支丹は、その元から離れて得体の知れぬものとなっていこう」
ロドリゴは自身の中に、「自分だけの神」を見出し、転んだ。
その後、岡田三右衛門として生涯を過ごしたことが候文で記された日記は、
無機質な中にも、何とももの悲しい空気に被われているように感じた。
彼の中には既にカトリックで伝えられる神は存在しないし、
それをロドリゴも痛いほど理解しているであろうだけに。
読後、きれいごとでは済まされない歴史の事実が、深い深い余韻を残した。

最後に…遠藤周作と同じくカトリック信者だった英国の作家、
グレアム・グリーンは本作をこう評価したとあります。
「遠藤は20世紀のキリスト教文学で最も重要な作家である」
以前、長崎新聞上で採りあげられていたように、
現在この作品の映画化に取り掛かっているというマーティン・スコセッシ監督もまた、
敬虔なカトリック教徒として、昔は司祭を志したこともあったとのことで、
どういった作品になるのか…とても気になるところです。
posted by garni at 03:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 差異 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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